2013-11-21 第185回国会 参議院 国家安全保障に関する特別委員会 第6号
次に、元毎日新聞政治部記者西山太吉参考人でございます。 この際、参考人の方々に委員会を代表して一言御挨拶を申し上げます。 本日は、御多忙中のところ当委員会に御出席いただき、誠にありがとうございます。 参考人の皆様から忌憚のない御意見を拝聴し、今後の審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。 議事の進め方について申し上げます。
次に、元毎日新聞政治部記者西山太吉参考人でございます。 この際、参考人の方々に委員会を代表して一言御挨拶を申し上げます。 本日は、御多忙中のところ当委員会に御出席いただき、誠にありがとうございます。 参考人の皆様から忌憚のない御意見を拝聴し、今後の審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。 議事の進め方について申し上げます。
常任委員会専門 員 五十嵐吉郎君 常任委員会専門 員 矢嶋 定則君 参考人 日本経済研究セ ンター・グロー バル研究室長 春原 剛君 弁護士 東海大学実務法 学研究科教授 落合 洋司君 元毎日新聞政治 部記者
政治部記者などマスコミ出身のコメンテーターにまじって、キャリア官僚出身の大学関係者やシンクタンクの方が随分いらっしゃいます。そして、その元官僚の多くは、定年より相当早く退官されています。 その元官僚のほとんどが、経歴を調べてみますと、アメリカやイギリスなどへ公務員時代に公費で留学された経験をお持ちで、外国の大学の修士などの資格を得ていらっしゃいます。
産経新聞は、今月二十五日、政治部記者の署名記事でいち早く見抜きました。那覇地検は二十四日、尖閣衝突事件で逮捕した中国人船長を処分保留で釈放すると突如発表、このような中国への屈服は一地検が下せる決定ではない、外遊中の菅直人首相と前原誠司外相、留守居役の仙谷由人官房長官らの政治判断による指揮権発動に決まっている。指揮権発動、何とも見逃せない物騒な言葉です。
実際私も政治部記者をしておりましたけれども、与党も担当しましたけれども野党も担当しております。 それから、人材の育成につきましては、とにかくジャーナリストとして公平公正に対する強い意識が求められるという指摘はごもっともでありますし、そうした人材育成に努めているところでございます。
○片山大臣政務官 読売新聞の記事につきましては、その政治部記者の表現につきましては、私も全部承知してそのとおりだと思っていることばかりじゃないですけれども、一般論として、政務官は衆議院議員であり、私の場合は静岡第七選挙区の選出の唯一の衆議院議員ですから、地元からの御要望を聞き、それを役所に伝えるということは当然のことだと思っておりますし、私以外のほかの職にあられる方も皆さん日夜やっておられると承知しております
私は、日本経済新聞社政治部記者として、将来の「小さな政府」の大改革を痛感し、父中川俊思の後継として、昭和五十一年に初当選いたしました。以来二度の落選を経て二十五年にわたり国政に参画できましたのも、ひとえに私を育んでいただいた郷土広島の皆様の温かい御支援と、諸先輩、同僚議員各位の御指導、御鞭撻の賜物であります。
また、この東京の仕事でも災害報道を中心に、私は、政治部記者ですから意外に感じるかもしれませんが、政治部以外の場合はほとんど、災害とか選挙報道とか、そういう緊急事態の対応の責任者をやってきたものであります。 そういう面で、災害報道については、NHKの中でもいろいろな経験をさせていただき、また、関心を持っているということでございます。
その中でちょっと気になることがあったのですけれども、科学担当の記者に対してプレスリリースをするけれども、もっと社会部記者や政治部記者にもリリースをすればよかったというようなことをおっしゃったのですが、私、昨年の選挙で当選してきたのですが、それまで長くテレビ局で政治部の記者をやっておりました。
参議院が発足して間もなく、緑風会が第一党になっていたわけですが、そのころ私はたまたま政治部記者で、参議院クラブを担当したことがあって、本当に緑風会というものの存在が正に良識の府にふさわしいということを何度か体験をいたしました。そういうことからすると、現在の選挙制度、そして現在の参議院ということについて、率直にひとつ御批判をいただきたいと思います。
松島さんは、朝日新聞の政治部記者、経済部記者出身であります。実は、朝日新聞から、二人の、経済部長と編集委員が帝京大学教授として入っております。そして、その二人が帝京大学の広報委員長を務めています。つまり、マスコミ対応の最前線でやっているわけです。
(拍手) 先生は、みずから進んで政治部記者となり、昭和三十一年の第一回日ソ漁業交渉の報道特派員となり、河野一郎農林大臣に同行することになりました。 一カ月余りのモスクワ滞在中に、ますます政治家たらんとの決意を固められた先生は、一九六〇年に、みずから東北のケネディと名乗り、三十六歳の若さで宮城一区から見事に当選されました。
君は、卒業と同時に北国新聞社に入社され、東京支社の政治部記者として、六年間、日夜取材に若さを燃焼させる中で、生きた政治の動きをつぶさに学ばれました。 その後、故郷で、昭和三十三年当時、厳しい状況にあった家業の治山社を継ぎ、十年足らずの間に会社を立て直すという偉業をなし遂げられたのであり、これも君の持って生まれた技量と才覚のなせるわざだったと申せましょう。
私は、今ジャーナリストと申し上げましたが、二年前まで朝日新聞に勤務しておりまして、政治部記者、あるいは論説委員、編集委員といたしまして、この地方分権の問題にオーバーに言えば三十数年ずっと取り組んできたといいますか、見詰めてまいったつもりでございます。
今、恐らく政治部記者の人たちにフィランソロピーと聞いて歩いたってほとんど知りません。そういうような状況ですから、そういった人たちの意識をどうして変えていくか。ですから、新聞社の人もボランティアの記事を書くだけじゃなくて、まず自分でやってほしいなと思います。そういった人たちも含めて社会参加させていくというふうなことで変えていくんだろうかなというふうに思っております。
終戦後の昭和二十一年、早稲田大学政経学部新聞学科に入学され、卒業と同時に日本経済新聞社に入社し、社会部記者を振り出しに、政治部記者として夜討ち朝駆けに励み、第三次吉田内閣の抜き打ち解散の大スクープをするなど、「日経の六助という若いすばしっこい記者」として、早くも頭角をあらわしてこられたのであります。 そして、池田首相との出会いがありました。
きょうここでなぜこの問題を申し上げるかといいますと、この中に実在人物が全部書いてあるわけでありますが、全国紙などのマスコミの政治部記者の名前が出てまいります。
○武部委員 会長も政治部記者の出身であることを私も承知いたしております。この本の問題は、これでおきます。 いま最後に申し上げました七月二十九日の問題は、あなたの方に何か抗議があったように私どもは聞いておるのであります。
(拍手) 大学を卒業された保利君が、報知新聞、次いで毎日新聞の前身である東京日日新聞の政治部記者としての十年を過ごされたことが、政治家保利君の将来の一つの大きな基であったことは言うまでもありません。記者時代にマージャンや碁に練達されたことも、保利君にとっては大きなプラスとなったと想像されるのであります。
いまから申し上げる資料の内容は秋田県で実態調査がなされたものでございますが、朝日新聞の政治部記者の橋本司郎という方が「年金あなたの老後」という題で論文的に発表なさった中にある内容でございます。「秋田県で、国民健康保険の被保険者のうち、二〇歳以上で国民年金にはいっていない人を洗い出したところ、二万二〇〇〇人もいた。
政治部記者として先生は、持ち前の闘志と俊敏さをもって手腕をふるわれ、気鋭の記者としてつとに名をはせましたが、他面、常に紳士的態度を堅持し、内外の信を集められました。 昭和九年、後の立憲民政党総裁町田忠治氏が商工大臣に就任された際、先生は懇願されてその秘書官となりました。これが、先生が政界に入る契機となったのであります。
すなわち民主政治の中に浮かぶ同じ運命の船であると私は思うのですが、総理大臣は、ほんとうに長い政権の座にあられ、それまでずっとトップの政治部記者の諸君にお会いいただき、そうした経験を通じられまして、いまから先の日本のマスコミの、一番大事な民主主義の共同のにない手であるマスコミの諸君に対する御見解を御披露いただきまして、私たちに自信、そして政治に対するわれわれの確信というものをお与えいただくならばしあわせだと